みなさんは「適当」という言葉にどんなイメージがありますか? 日常生活では「中途半端」や「大雑把」のような、あまり好ましくないニュアンスで使われることが多いはずです。職場で上司に「適当にやっておきました」と言うと、大抵の場合は叱られてしまうでしょう。
しかし、本来は「ちょうどよい」や「ふさわしい」といった意味を持つ言葉。実は「適当であること」は人生にとって大事な要素の一つであると私は考えています。
そして、そんな言葉を体現しているのが、ご存知「テキトー男」の愛称を持つ、俳優・コメディアンの高田純次さん。テレビカメラの前でこそ映えると思われがちな彼が、紙の上でもその魅力を存分に発揮した一冊をご紹介します。
まず、幅の広い帯に書かれているのは、彼らしいウィットに富んだ一言。
「これがオレの最後の本だと思ってくれていいよ。売れたらまた出すけど」
(帯コピーより)
ザ・高田節ですね。そんな帯の下に覗いているのは、暗いバーで頬杖をついて俯く本人の写真。シックで絵になる一枚です。しかし、帯を外すと裸の下半身に天狗のお面をつけた姿が露わになります。思わず「一本取られた」と唸ってしまう仕掛けです。
テレビで彼を観ていて思うのは、軽い冗談は笑いながら言うことも多いのですが、「本気でボケるときほど真面目な顔をしている」こと。神妙な面持ちで相手を引きつけておいて、重めのトーンで相手の想像を裏切ったことを言うのが、彼の得意とする緊張と緩和のテクニックです。会話であれば相手の反応を見ながら笑わせることができるかもしれません。一方で本書のように読者の視線の動きや帯をめくるという動作を利用して笑わせるのは、本づくりにおける一つの発明ではないかと思いました。
また、もう一つ注目したいのが本書の判型が新書版である点。新書といえば文庫より少し縦長で、様々なテーマの教養本やビジネス書が一般的です。著者も実業家や専門家など、どちらかといえば堅いイメージの人が多い印象。彼の本をあえてこの新書版でつくるところに、私は意図を感じました。知的な雰囲気を醸し出す新書版は、先述の緊張と緩和の演出に一役買っているに違いありません。
内容は、日記形式で綴られる彼の日常。読んでいると彼の声で脳内再生されるので、文章であってもユーモアは健在です。各ページの下部には脚注が載っており、日記を書き終えたあとに本人が一問一答形式で本文を補完したりしなかったりする内容になっています。本編と脚注で二度楽しめるのも嬉しいポイントです。
ひと月ごとに章が分かれているのですが、後半の月になると徐々にページ数が減っていく点には、「読者を笑わせられるのは本の内容だけじゃない」と気づかされます。装丁や構成、脚注といった、本という媒体のあらゆる要素をフル活用して楽しさを伝える、全身で笑いを表現する彼ならではの魅力が存分に発揮された一冊だと思います。
「責任」や「完璧」といった言葉に縛られて、知らず知らず自分や他人を追いつめてしまうこともある世の中。「適当」の持つ「ちょうどよさ」に救われることもあるかもしれません。
(文・望月竜馬)
『適当日記』
著:高田純次
発行:ダイヤモンド社
ISBN:978-4-478-00376-3